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京都在住Webエンジニアの日記です

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アウトプットに対する苦手意識について

思った事とか勉強したことをまとめて書き出したり表現したりする、つまりアウトプットを、なかなか書けない時とするする書ける時というのがある。その違いは何なのかとか、アウトプットがうまくいかないときに、それを妨げている心理的障害は何なのかを掘り下げていくうちに、これ自体が一つのアウトプットになった。つまり今回は成功だ。

だいたい僕はアウトラインの途中らへんまでを構成して、そしてそれを半分くらい文章として肉付けしているあたりで厭になって辞めてしまうことが多いのだった。ブログの下書きにはそういった文書が積み重なっていて圧巻だ。

なんで途中で辞めてしまうのか。それはやはり劣等感と遠くでつながっている話であるようだった。僕はまず辞めてしまうタイミングに着目して、その時どういうふうに感じているか、自分と向き合ってみた。すると、僕がアウトプットの中途で書くのをやめてしまうのは、「大したことをやっているように自分を見せかけているようで、その姿に嫌悪感を覚えるから」であった。言語化すると問題は半分解決したも同然であるから、まずここで納得できる言語化をできたことを僕はよろこんだ。

前述した、「大したことをやっているように自分を見せかけているようで、その姿に嫌悪感を覚える」ということが心理的障害となって、自己表現の継続を妨げていることがわかった。これを解消することで、アウトプットが上手くいかない悩みの原因の一つが取り除かれるかもしれない。この認識に迫ってみる。

まず、「大したことをやっているように自分を見せかけているようで」という前半の部分。ここに潜んでいる心の声を補足すると、次のようになる。

「(実際は自分は劣っているにもかかわらず)大したことをやっているように(無価値なアウトプットをしているから)見せかけているようで」

認知の歪みにより生じていた、隠れた前提が明らかになったので、これを明に論理的に否定していく。(多分僕は認知療法を自前で行っている。)

まず自分は劣っていない。劣っているというのは他のソフトウェア開発者と比べてという意味なのだが、優劣という観点で自他を比較するのはナンセンスである。これは難しい話題だし深入りしないが、自分が劣っているという認識は自分の成長に非常に悪い。

次にアウトプットは様々な側面において価値あるものである。たとえ他者から見て陳腐な話題であったり、車輪の再発明、練習問題をやっただけでも、それは一人の人間の考えた軌跡である。アウトプットというとすぐに使えて役立つバイブル的なものを想像しがちなのだが、それはアウトプットの中でも氷山の一角であって、どちらかといえば僕は、アウトプットの核心は自分でどう感じたか、どう考えたか、という知的作用を記述し、他者がそれを追体験できるようにすることにあると考える。アウトプットは表現であり、もっと自由である。

さて、アウトプットが楽しいもので、劣等感とはかけ離れた存在であることを認知したので、次は「……その姿に嫌悪感を覚える」ことについて深堀りしていく。なぜ嫌悪感を覚えるのだろう?

この話題はインポスター症候群と呼ばれる症状と似ている。つまり、「自分は本来周りが思っているほど有能ではなく、それを隠してみんなを騙してしまっている、と感じてしまう状態」とだいたい同じような話をしている。 やはりここにも劣等感の害が見え隠れしていている。このような(騙しているといった)認知は自分が劣っているという認識からくるもので、これを打破するには小さな成功体験を積み重ねたり、客観的な評価を受け入れたり、他者と自分を比較しないといった態度を取ることで自己防衛できるように思える。

結局劣等感の話に帰着してしまった。結論としては、アウトプットをやっていくには劣等感を打破する必要があって、そのためには精神的自己防衛と、小さな成功体験を積み重ね、またそのことを(初めてコンピュータを動かしたときの初心に帰って!)喜ぶことが必要なのかなぁと思った。自尊心を高く持ちたいですね。

つらつらと書いたところ、まあ自分なりにアウトプットしやすい気分になれたかなと自負している。これが誰かの役に立つかはわからないが、たしかにこれは自分の頭で考えて辿った道筋なので、それなりに価値はあるかもしれない。

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