Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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趣味が仕事になりつつある中で、辛さを覚える自分へ

二月も後半を迎えた京都では、薄暗く冷たい景色の中に、時として春の顔が覗けるような気候になりつつあった。 今日はやや暖かく、パーカーにコートという出で立ちで買い物に出たものの、店につく頃にはやや汗ばんでいた。

一通り食料をリュックサックに買い込んで、今しがた来た道を引き返す。去年の今頃と比べると、街並みの輪郭は穏やかで、窮屈さと不安は薄まりながら鳴りを潜めているように思う。孤児のように恐怖し、不信を顕にし、どこでもいいから寝そべりたくなるような絶望感を感じていたのと比べると、少しは自分とその置かれた状況について心得てきたのだろうと、半ば自分を説得させながら、なるだけ下を見ないように歩き続ける。

人間は生まれるとすぐに名前を与えられ、次に年齢とともに語られるようになる。同じ年に生まれただけの誰かと比べられながら、その優劣を競わされる。そして義務教育を終えてからも、あたかも人生には同じようなレールが用意されていて、ぞろぞろと客車に乗り込んでいくものだと勘違いしてしまうのだ。 もともと人間の人生は誰に規定されるものではない。誰もが模範的な人生を教えてもらいたがり、また他人の人生が模範的でないというのを様々な言葉で詰ろうとするが、そんなものは最初からないのだ。 既成の価値観の殻が破れ、自分が信奉してきた価値観が宇宙的な多様性の中の雑多なピースに過ぎないのだと突き付けられた人間は、自己の存立が脅かされる不安から絶対的に正しい答えを教えてもらいたがるのだが、そんなものはない。インターネットが共通のありもしない敵を創り、まやかしの正義がもてはやされる。だがそれは自分が依代とする価値観の後ろ側にある、時代の自由によって押し広げられた、ぽっかりと空いている絶望的に広い暗闇に対しては、全く無力だ。

自分の足元からしか自分の実存は勝ち得ない。

社会は相互に密接に結び付けられていて、常に多様性と自由の暗闇を意識せざるを得ない構造になっている。 あれをやらなくては。これを知らないと生きていけない。それに無知だと役立たずだと思われる。これは常識だ。…… 「インディアン」がアメリカ大陸の西端に追いやられ、やがて消し去られたように、インターネットは私の自宅を、私空間を、針のむしろで満たした。それはちょうど孤独とは正反対の感覚を私にもたらしつつ、しかし目の前には誰も居ないのだから心は突き放されていった。

とりわけ時流に乗ることを職業的な宿命として受け入れなければならない僕は、暗黙のうちに受け入れてしまっていたのだが、あらゆる何かをやろうという時に他者の存在と優劣、そして価値を生まなければならないという強迫的な自責に苛まれ続けてきた。これまで僕はこれを表現する言葉を持たなかった。だがこうして記述的に表現できる程度には、この因習めいた思考に首輪を付けることができている。

自分がやれるところから、自分がやれるだけやれば、それで良いのだ。無理をしてみても、自分の何もできなさに嫌気が差して自分を責めるだけなのだ。ネットの何処かで聞いた、「冷蔵庫のあり物でやりくりして何か作る」感覚で生きていればいい。ちょっとずつ、ちょっとずつ。ただ自分だけと向き合って、必要なことはそこそこに、好きな事はたっぷりやる。趣味と仕事との重なりが広い僕のような人には、そのような生き方が向いていると思う。趣味だった昔は楽しかったのに仕事になった今は辛い、そんなことが地上から無くなればいいのにと思う。

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