Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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言葉に出すこと

上映開始の報を聞いてそのまま予約したチケットに起こされる形で眠い目をこすりながらたどり着いた映画館、の雰囲気はいつもワクワクする。

虐殺器官』。言葉と思考とテロリズムにまつわる哲学的な対話が何度も繰り返されるのは原作となった小説と同じだ。こういう考えさせられるのは好きなので、作者である伊藤計劃氏の早逝が悔やまれる。映画の情景描写が小説を読んで浮かんだ風景とあまり違わなかったのは監督の腕前か原作の描写の卓抜ゆえか。

最近脳が鈍っている。のは、何かを見聞きしたり会話をしても、その内容が頭に残らず、つむじ風のように消えて無くなってしまって本当にそこにあったの?と不安になるような時がよくあるからだ。作中では、〈思考は言葉に規定されるか?〉という一つの問いが発せられる。しかし私は言葉を使っているのか?普段生活していて言葉を使ったと意識した瞬間は何度ある?本当に言葉というものが現れるのは口頭で内省的な会話を行った時くらいのような気がしている。仕事は決まった形式の言語を使えばこなせる。世間話にも考える余地は大して無い。

持ち歩くのが嫌で最低限の金銭しか持ってこなかったおかげでラーメンを食べ損ねた。駅はいつも他人事のような顔をしている。地下鉄に乗った。

内省的な対話ができるのは幸せなことだ。それが喋る楽しみだと思う。どんなところが面白かったの?あれ良かったね。これは好き?どう思う?それはなんで?その問いかけはまっすぐ尖っていて、遠慮がない。親しい間柄の人間にしか許されない行為。世間話には出来ない鋭さ、人間の距離を天秤にかけず無視する危ない楽しみ。聞き上手な人は、その快楽を知っているのかもしれない。

クレジットカードは持っていたから、近場の回転寿司で食べてきた。明るいうちに食べるのは劇場と同じで、なんだか味気の無い諦めっぽい体験だった。外は雨の名残に石畳が黒ずんで光っている。

家で一人になりながらゲームをし時間を裁断していった後圧倒的にかき混ぜられてカクテルパンチになった頭では何も考えられないほど平たくなっていたが、独り言を言ってみた。頭の中の曖昧な部分に血肉が宿り、口から出て行く。それが新鮮で可笑しくてずっと一人で喋っていた。今まで喋らない生活をしていた。内省的な対話をしなかった。それは特権的な行為なのだけれど、人には必要なものだと思う。そこから親密さが生まれる。スマホ越しの文字の投げ合いやゲームの体験では得られない親密さだ。テーブルを囲んで向かい合った時に人は歩み寄ることができる。

今日もまた強くなった。

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