Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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意見の無いこと

ある物事について他人からどう思うかなどと意見を求められた時、僕はあまり意見を述べるのが得意ではない。何を言ったら良いかわからず口ごもってしまうことがしばしばだ。

どうして自分は物事について意見を述べることができないのだろう、どうして自分は考えを持たないのだろう、と頭を悩ませ続けていたが、これは物事に対する価値観 に深く根ざした問題であると気付いた。

僕はどちらかといえば相対主義的な考え方を持っていて、ある物事が絶対的に正しいとか、またある物事が絶対的に悪いだとか、そういう絶対なるものに懐疑的な見方をしている。ある意見を見聞きしたとしても、別の見方があるのだろう、 この意見はある事実の一面からしか物事を見ていないのではないか、という疑い深い視線を投げかけるのが癖になっている。

どうして僕がそのような考え方をするようになったのかと言うと、僕はインターネットのまとめサイトと共に育ってきていて、ある事件が起こるたびに様々な意見が飛び交ったり、憶測でものことが語られることを見てきていて、また新事実が発見されるたびにインターネットの住人たちがあっという間に手のひらを返して勝ち誇るのを見てきた。 そういうわけで僕は、ある情景を見た時に価値判断をさしはさむの無意識的に避けるようになった。誰が正しいことを言っているのかまるでわからないというわけだ。そこから例の疑い深い視線が生じ、自分がその一方的な目線に基づいた意見を言うのを恐れるようになったのだろう。

言い換えれば、「あるべき姿」というものについて考えるのをやめていたというわけだ。 人々はそれぞれ好き勝手に何かのあるべき姿を思い描いてはそれを喧伝している。 僕はそれが嫌だったのだ。

だがその一方で大多数の人間の中でコンセンサスが得られている「あるべき姿」というものもあるだろう。 例えば我々が作っているようなソフトウェアにおける設計のベストプラクティスだとか、そういったものにはパターンが存在し、「あるべき姿」というのも存在する。 僕が求めていたのはこのコンセンサスが得られた「あるべき姿」ではないだろうか。それを寝ていたときに発見したのだ。

ある集団の中でコンセンサスが得られている「あるべき姿」を知るということは、その集団、ひいては他人を理解するということに他ならない。僕にはその「他人をリスペクトするという心」が足りていなかったのではないだろうか。 また、「こうあるべき」という考え方は、集団の中で責任を持つということである。 責任、つまり他人の運命を背負うだけの度量は僕にはあるだろうか。

チャランポランした大学生生活を送ってきたツケが今になって回ってきているような気がする。 だが道筋が見え始めているので、一概に落胆することもないだろう。

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