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Lambdaカクテル

ソフトウェア開発者です.玉石混淆です.

あたたかな文字、印刷の遺書、プライベートなブログ

社会人になってまで字が下手なのはさすがにまずかろうと思い習字をやろうと思っていたのだが、 そもそもここしばらくまるで文章というものを自分の手で書いていないことに気付きはっとした。 自分はWeb系のエンジニアという微妙な知名度の仕事に就いているものだから嫌が応でも電子化の恩恵を受けることになるのだが、ちょっとしたメモくらいなら自分の手で書く。 しかしそれが20文字を越えたらもうそこからはタッチパネルかキーボードスイッチの管轄だ。 習字をやって字が人様並に書けるようになったとて、それをどこで活かせばよいのか見当もつかない。

ところで日記や遺書がワープロや印刷で作られたという話は聞いたことがない。 私の見識が狭いのは重々承知だが、それでも日記は印刷で清書しているという人は杳として知らない。 だいたい自分がそんなことをやれと言われたら面倒でそんな気にならないだろう。

しかしちょっと待て。ブログというものがあるではないか。あれも立派なWeb日記にほかならないのではないか*1。ブログに日々のあれこれを記述している人間は沢山居るはずだ。これは機械的に清書された日記と呼べるかもしれない。 だが実世界の日記と比べて批判の矢面に立たされる確率ははるかに高いし、内容も比較的意見の主張に近い部分があるように思えてきた。 つまるところ、ブログには私的な文章よりもパブリックな度合いが相当含まれるのではないか。

意見の主張やその批判とそれを記した人格とは分けて考えなければならないという考えがある。 意見と人格の分離と呼ばれる、小学校の学級会以来守られたことのない原則である。 だがきわめてプライベートな文章、つまり日記や遺書というものにその考えが適用されるかどうかはあやしい。 日記や遺書は、それ自体が本人の投影であるし、両者を切り離した状態での表現は甚だ困難と言うべきである。 手書きの筆跡も、そのような本人を表象する物質の一部を成しているのではないか。 であるが故に、日記や遺書から手書きの要素は排除できないのではないか。

日記や遺書が手書きの伝統を固持し、電子化や印刷化が進まないでいるのは、こういう事情があるのではないかと察する。 電子化によって手書き文字が表象していた書き手の人格が切り取られ、「パブリックな」文書の原則である意見と人格の分離が強制的に執行された結果として、ブログにはある程度のパブリック性が付与されたのだろう。

ブログを書こうというときに何だか見られているような気がして*2気が進まないのは、パブリックである程度きちんとしており、いたずらに批判を浴びないような記事を書こうとするという無意識の防衛機制が働いているのかもしれない。特にソーシャル性の高い媒体にその傾向がある。この心理的障壁を解決すれば、ブログは書きやすくなるだろう。

*1:Webエンジニアが気付いていないわけがない

*2:当然だ