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Lambdaカクテル

ソフトウェア開発者です.玉石混淆です.

ついに実家が新聞をやめた理由

思索 日記
実家が新聞を止めた。どちらかといえば保守的な考えの強い家だっただけに、長年取り続けてきた新聞を捨てるとは僕は全く思ってもいなかったし、非常に驚かされた。このことは大晦日まで知らなかった。「もう新聞も今日が最後だね」という母の言葉で、初めて僕は実家が新聞の購読を今年限りで停止することを知ったのであった。

我が家と新聞は非常に長い付き合いをしてきたように思う。物心ついた頃から、我が家には新聞があり、僕は小学校の時も中学校の時も高校の時も家に届く新聞をわからないなりにもつまみ読みしていた。僕が読書などの知的な習慣をそれなりに身に付け、ある程度社会的な知識を身につけることができたのは、新聞の恩恵に依るところが大きいだろう。趣味とは言わないまでにしても、はっきり言って、毎日届く新聞は僕の知的好奇心を十分に満たしてくれる、僕の生活の一部だった。

その新聞をどうして我が家は捨てるに至ったか。父母は揃って「宣伝ばかりでつまらない」と言った。

宣伝。父母があえて「広告」と言う言葉を使わずに「宣伝」という言葉を使ったのは、僕らの思考に対する一種の傲岸不遜な新聞の態度を無意識のうちに感じ取っていたからではないかと思う。いわゆる「ステマ」に対する不信感がその言葉からは匂い立っていた。

昔は流行っているものに従っていればよかった。世の中の流れは1つだった。世界というものは1つしかなくて、見方が違ってもその本体は同じものだと考えていた。

今はそうじゃない。無限に分岐した価値観の中で、各々が各々の好きな世界で物事を見出し、消費し、暮らしている。そういう時代に、新聞はそぐわなくなったのだ。

そしてもう一つの、「つまらない」と言う言葉に、僕は頷かざるを得なかった。数年前、日本の各紙がこぞって紙面を“改良”した。文字が大きくなり、言い回しは平易なものに代わり、内容も甘口になった。しかしそれは、深く掘り下げた分析的な内容という新聞の利点を完全に殺してしまうものだった。

かつての新聞は読んでいて面白かった。小説を読むような興奮感があった。今の新聞にはこのインスピレーションが感じられない。それは新聞社の衰弱、ということではなく、読者の衰弱にその原因があるだろう。今の新聞には誰にでもわかることしか書いていない。今の読者は、今起きている事が知れれば良いのであって、起きたことに対する視点を欲しない。皆で共有する1つの世界というコンセプトが崩れた現代において、共通の話題に対する深く掘り下げた情報に代わって、今起きている事の情報が優先されるようになったのだろう。

忙しい世の中になったものだと思った。書籍もこのような流れをたどるのだろうか。