Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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感想文はだれのために書くのか

大学の講義の関係で、感想文を書かせられる*1ことが多くなってきた。
僕は素直な人間なので、面白くなければ面白くなかったと書くし、話の内容よりも教師の話術の方に魅力を感じたらそう書いている。
その感想文が本当に読まれているかは怪しいし、赤を入れられて僕のところに戻ってくるわけでもない。本当にただの感想文なのだ。

しかし、そう簡単にいかない講義というのも、残念ながら存在していて、どれだけ頭をひねってもさっぱりさわりのない講義の感想を書かなければならない時なんか、地獄だ。
それでも書かないと出席にならないのでしかたなく書くことになる。

でも書けないものは書けないもので、義務教育にありがちで形式的な、「foobarということがよくわかりました。hogehogeだなあと思いました。piyopiyoたいと思います。」というのを書くことになる。

僕に関して言えば、こういう身のない感想文は大嫌いで、そんなクソみたいな駄文を書くくらいなら書かんぞ、という意気でいるのだけれど。

想像してみるがいい。
ひたすら講師は原稿どおりにしか喋らない(しかもうるさい)。
プレゼンテーションにはユーモアの欠片もない。
ひたすら事実とデータが列挙されている味気もクソもない画面。
手元にあるのは無駄に量ばかりの(プレゼンを写しただけの)レジュメ。
昼寝の時間にするのが賢明なんじゃないか。

どうせこの手の感想は、「さいですか」くらいしかないものだ。
わざわざご苦労だったね、くらいのねぎらいの言葉しか僕の頭には浮かばない。

感銘を受けた講義は自然と感想がこぼれてくるし、面白い講義は講師を褒めてやろうという気持になるものだ。
自然にふわりと心に生じたのを念写するのが感想というやつの本来のありかたなんじゃないか。

そう感じるようになってからというもの、僕自身がプレゼンかなにかをした時に、
どう感想を持たれるだろうかと、それはそれで恐怖している。
結局のところ、講師が上手だったら感想も上手になるし、その逆もまた然りなのだ。

*1:「書かされる」「書かせられる」「書かさせられる」が混乱して最近頭のなかでぐるぐる回っている。

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