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Lambdaカクテル

ソフトウェア開発者です.玉石混淆です.

メトロ行った

同僚氏とクラブ「メトロ」に行った。そもそもクラブ行ったことなかったけどライブハウスという感じで楽しかった。爆音でなんか鳴ってるのでストレス減ってきた。ただしクラブの文法がよくわからなくて、ほぼ喋らずに一人でゆらゆらしていた。自分は声が通らないタイプなので何もできない。人は無力。あと顔が真顔でずっとそのままで、私は笑顔を忘れてしまったのか。と問いかけたく。人の尊厳。カバンが大きくてロッカーに入らない。押し込んだ。かばんちゃんと名乗らせて頂く。そのうちくたびれてきて、帰った。同僚氏体力ありすぎると思ったが、どう考えても自分の体力が無いだけだと思った。したがって鴨川を走らせていただく。ジャージが買ってあるのが届いたのをダンボールから破り取りリュックに詰めたので持って帰ったのを着て 走るぞ。

日記(心労気味/聴き方にも技量があるのではないかという話)

日記

最近の更新情報

  • 最近禁酒しようと思って実践しているのだが,今週は禁酒できている.できれば飲まないことにしたい.
  • なんか最近心労ぎみ.
    • ストレスを解消するのが下手なので,いいかんじに解消できたらなあと思っている.
  • やらないといけないことを把握できなくなっているのも心労の原因だと思ったので,GTDを復活させた.いまのところ好調.
  • 家に帰ると疲れてアウトプットする余力がない.疲れやすい.
  • 効果的に聴き,効果的に話すことについて考えている.
    • 伝わる話し方についての情報は沢山あるなかで,伝わる聴き方についての情報はよく知らない.
    • むかしから,人の話をうまく聴くことができない.うまく理解できないし,憶えられない.

心労気味

最近体調の変動が激しい.心理的体調の変動も激しくて,夜になるとめちゃくちゃネガティブになってくる.落ち込むの自体はよくある話だろうけれど,その振れ幅が大きくて疲れてしまう.なんだかなあ.全力で動けるときは今の数倍の仕事ができるのに. 眠れない傾向はまあまあ改善してきた.というか,眠くなったら寝るし,でも仕方がないので会社の前には起きるという感じにレベルダウンしただけ.本当は8時ごろに起きて本とかを読みたいけれど,そんなパワーが出ない. 別に理由があるわけではないんだけど,普通のことができない気持ちが支配的で,べき論的な言葉が目につくと,普通のことができる圧力を感じて弱ってしまう. 会社に行くと元気になってきて,その間はあまり気にならないのだけれど,一人になるとぐったりしてしまう. 今こうして日記が書けているけれど,今日は元気なので日記が書けている.元気が本当にないときは,寝ている.

効果的に聴くこと

話し方の本はたくさん世に出回っているけれど,聴くことについてクローズアップした本はあまり知らない.聴くことにも一定の技量が必要だと思う. 話を聴く中で,注意しておくべきポイントとかを押さえられれば,うまくコミュニケーションが成立してハッピーだと思う.

追記

その手があったか,遠くをぶらついてみます

本を貸し借りできる友達

日記

友達に本を貸すということは自慢できる行いだ。そこには物語の受け渡しがあり、それ自体が小さな物語だ。他人が書いたはずのものなのに、自分の内心を読まれてしまう気恥ずかしさと、見えない秘密を共有するささやかな楽しさをもたらしてくれる、優しくてへんな営みだ。そんなことを許してくれるような友達が僕にも何人か居るのはグッドラックだと思う。

そんな友達たちに一年ぶりに会って、大学の向こうの世界の話をした。仕事はどうだろうか。最近何をしている?自分は何をしている?といったふうに。われわれが飛び込んでいく社会には名前が無い。高校、大学、サークルには名前があるが、その向こうの社会には「社会」という名しか与えられていない。広く混沌としていて曖昧で生きている世界と対峙しなければならない。そういった不安や緊張感をなんとなく交換できた。友達と話せて心の支えになりそうだ。

今回は一方的に喋りすぎてしまって、あとから恥ずかしくなった。もしかしたら得をしたのは自分だけかもしれない。それでは悲しいので、また機会があれば聴く側になれたらいいなと思う。

貸した本が返ってくるのはまだ先で良いような気持ち。

休みの日(コミュニケーションと同情とHRTの話)

日記 コミュニケーション

休みの日がやってきた。でも特になにもしてない。誰かとでないとあまり外出しないので、家から出たのは夜遅い買い物の時だけだ。

同情、チームコミュニケーション、テキスト文化

実は最近仕事がうまくやれなくて凹んでいる。もちろんそんな時は励ましたり一緒に解決策を考えたりしてもらえて幸せなのだけれど、同情してもらえるということはあまり無い。

プログラマというのは改善するのが仕事という意識があるので、事態の解決が最優先だから同情は後回しなのかもしれないが、私も人間なので、同情も欲しかったりする。意外とこれは忘れられがちではないかと思う。Team GeekにおけるHRTにも関わりがあるのではないかと思う。

してほしいことは先ず自分が行うのが鉄則なので、人を助けるときは、労りの言葉をかけるのを忘れないようにしたい。雑に「やっていき」とか言っていたのは、人の抱えるつらさに真剣に向き合っていなくて無責任だったと思う。

言葉が定型句化してコミュニケーションが中身の無いものになってしまうのは、テキストコミュニケーションの問題点のひとつだと思う。芝居のような会話をしても誰も幸せにしない気がしてきた。真剣みが失われると真面目にやらなくなってしまう。

部屋が散らかる話/理解・想像の及ぶ範囲と学習

随想

気付けば机の表面が見えなくなっている.どうも片付けは苦手で,油断すると台風が過ぎたような部屋*1になってしまいます.出した物をしまえばいいだけの話ですが,ちょっと見ておきたいチラシや,書くか決めかねている書類などが机のわきに積っていき,上から見ればまるで都市のよう.どうやら,それがいつまで使われるのかの見積りが下手なのかもしれません.今机には,じゅうたんのチラシ(鴨川を散歩 - Lambdaカクテル 参照)と,最近買ったXperia Compactと,それにスマホの座を食われたiPhone,リラックスサプリメント,ポット代わりにしている水筒,WindowsタブレットNFCリーダ,AVRISPmkII,有機ELのキャラクタモジュール,高校の友達にもらったティーカップ,ドンブリ,紅茶入れにしているクッキー缶,個包装の餅,メモ帳などがある.あ,壊れたマイクもある.

後片付けが苦手な性格は生まれつきで,あらゆる物の後片付けに失敗して育ってきました.宿題ももちろん忘れるタイプで,当時はメモするという概念もそれを見返すという概念も存在しませんで,ガンガン忘れていました.よく会社員になれたなと思います.皆様ご迷惑をおかけしました.生きているうちに自分なりの対応方法を獲得した結果なんとかまともな生活ができるようになったわけで,人間の学習能力は大したもんだと思います.学習した技術を挙げてみると,しなければならないことが発生したときはすぐにメモを行い,遅滞なく最後まで完了させる(先に延ばさない)ということに尽きます.あたりまえのことですが,これができなかったうちは大変でしたが,自分で困った中で編み出した知見なので,守り続けられています.

僕は教えられたことをそのままやらずに余計な事をするタイプです.これをやれと言われても,納得するまで手を付けませんし,納得しない事には全く興味が持てずにむしろ疑問視するという感じです.

高校では,それを裏付けるように得意な教科と不得意な教科がありました.暗記系はさっぱりダメで,数学も「何になるのかイメージがわかない」という理由で上達しませんでした.地学といった自然科学は想像やアナロジーの働く余地があったので得意でした.英語も,「異言語で同じメッセージを表現できるのは面白い」という理由で得意になりました.このあたりは非常にピーキーで,数学の成績は常に学年最下位レベル(センター試験で勝手に選択したプログラミングで生き長らえたといっても過言ではありません)で,その一方英語はかなり上位に食い込んでいました.地方の進学校だったのでカリキュラムのスピードが速く予備校にも行っていなかったという弱点と,理解の堅実な積み重ねを必要とする数学との相性が最悪だったようです.今となっては,好きなところから数学を学ぶことができるので,数学がもっと好きになりました.実は数学は中学校までは得意でした.

学習では,理解していることが最重要だと思います.知っているところから押し広げていき,それを補強していくのが王道でしょう.少なくとも僕はそういったやり方が最も得意です.そのためには基礎的な知識がたくさんあることが大事で,なんとなく直感的に知っていることが多いほど,学習の初期において有利だと思います.そこから学問は発展していくわけですから.

これと対照的なのが高校数学のカリキュラムでしょう.素朴な理解から敷衍していくのではなく,いきなり各分野の定義を教え込まれます.僕はこれに耐えられませんでした.中学校で習った数学との連続性が感じられず,断絶した孤独な知識としか感じられませんでした.経緯というものを教えてもらえないのだから仕方ない話です.

最近は数学ガールを読んでいます.

*1:自衛隊で行われる教育的指導としての「台風」については, http://www.mod.go.jp/pco/saga/rensai/no_8/no_8.html を見よ.

ふさぎがちな時(ふわふわした暮らし)

随想

生きているとふさいだ気持ちになってしまうことがあります.これは事故のようなもので,ふさいでいるから人と関わりたくないのか,人と関わらないからふさいでいるのか,よく分からない穴に心がすとんと落ちてしまうことがよくあります.穴に落ちているので,意識が写し取る身の周りの情景はどこか虚ろで,それによって活動的な意識の手足はもがれてしまい,心身が防御体制をとりがちになるようです.

僕はたまに散歩に行ったり,人に愚痴を聞いてもらったり,まいっかと思ってゴロゴロしたりして,穴から抜けるのを待つことにしています.いつもの家のいつもの部屋じゃない環境にしばらくとじこもって,自分本位になるわけです.そうしていると,自分の心のたもとがゆっくり広がっていって,心が穏かになるようです.

穴に落ちているときにやらないようにしていることもあります.たとえば,SNSに接触しないようにしています.SNSでは他人の体験しか見られないから,自分と人をくらべてしまいます.人とくらべるとつらくなるだけです.自分の体験を持つことが大事かもと思います.僕はすぐ思い上がるので,画面で見たことのあるものや人を知った気になって,なにか別の物に気をとられてしまいがちです.でも,自分が知らないことはずっとたくさんあるわけです.それを知るのに,ちょっとした散歩や,人に相談すること,カフェに行くことは丁度良いようです.

自分を追い込まないように,ふわふわと暮らしていきたいですね.緊張も努力も安心も,適度が一番ということです.ふわふわ.

windymelt.hatenablog.com

社会人の読書と価値と遊びにまつわるエッセイ

随想

あまり共感してもらえないかもしれませんが,本の存在を察知して吐き気を催すことがあります.とくに,読まないまま机の脇に置いたままになっている「積ん読」のことを思い出したときがそうです.せっかくお金を出して手に入れた書籍を役立てること無く埃を被せている自分への不快感,もの言わず威圧的に居室の一角を占める紙の束が,まるで怒って牙を剥いているようです.

もっとも,書籍というのは他の媒体と同様,必ずしも自分にとって役立つものばかりではありませんし,役立てなければならないというものでもありません.しかし,ウェブサイトやテレビ番組といった他の媒体と比べるといささか,読み手に与える心理的プレッシャーは大きいようです.殊にそれが自分で買ったものであるときはなおさらです.自分がお金を出して買ってきたという現実が,ページという目に見える単位をめくるたびに,自分の心に重くのしかかってきます.できれば,小さい頃に絵本の読み聞かせをもっとせがんだ時のような,純粋に知的な好奇心に衝き動かされるままに本を読みたいのですが,社会人になってからというもの(あるいは,それを心のどこかで意識しだした学生時代のどこかから),まるで忘れ物を探すように本を読んでいる自分に気が付きます.

「社会人」という言葉は,「価値」という言葉と切っても切り離せない関係にあるように思います.人が誰かを社会人と呼ぶとき,社会が求める価値にみあった働きをせよ,と暗にその人は言っているわけです.ほとんどの社会人は価値の見返りに得られる賃金で生活しなければならないので,あらゆる所作に価値判断を差し挟まざるをえなくなります.僕の職域であるWeb系エンジニアは,価値に対する賃金の依存が強く(平たく言えば実力主義的で),価値を測るものさしの変化が比較的起こりやすい仕事です.このため,生活における価値判断の介入度合いも高まります.例えば,

  • この技術は役に立つのか?
  • この技術は残るか?
  • この知識は汎用性があるか?
  • この知識を知ることに意味はあるか?
  • これをすることは自分の価値を上げるか?

という半ば強迫的な自問自答に向き合うことを余儀なくされます.そしてコンピュータに関わる仕事をしている人はその多くがコンピュータ好きなので,プライベートでもコンピュータをいじって過ごしています.つまり,仕事とプライベートがシームレスにつながりがちで,例の価値判断という魔物がプライベートにも巣喰ってしまう土壌があります.僕は学生の頃から「ちゃんとした」人になろうという意識が高かったので,自ずと自己啓発書に引き寄せられていき,頭の中が「価値」に占められがちになってしまったように思います.

ところで,「価値」の対極は何だと思いますか? 僕は「遊び」なのかな,と思います.無価値を否定しない,何の役に立つかわからないものにも是と言う態度を僕は忘れがちです.生産性,キャリア,目的,立派といった言葉で窒息して身動きがとれなくなったことが何度もありました.その体験を通じてなんとなく分かってきたのは,「価値」という概念は,人間のありようのうち,ほんのわずかな箇所しか照らし出さないということです.だれにでも,価値という照明では陰になって見えなくなってしまう,重要で美しい色彩があります.そのことが,本をめぐる吐き気と向き合ってわかってきました.

価値判断の呪いからはすぐには逃れることはできそうにありませんが,そのような心理を作ってしまうことをできるだけ回避しようとする努力はできそうです.そもそもこの不安は,生きていけなくなるという不安に端を発していると考えられるので,不安に囚われないようにすれば自信が取り戻せると思います.そのためには,完璧主義を捨てることを考える必要があります.誰しも完璧な人は居ないので,自分がもし完璧にできなくても,そうそう世界から落伍してしまうことはないのだと信じるのです.自分と同じくらいの人だって沢山いるのだと分かっていれば,あまりみじめな気分にならずに済むでしょう.周りで立派な人々が活躍するような環境*1では,劣等感に苛まれるかもしれませんが,彼らとて完璧ではないはずです.自分を苦しめない程度の憧れが,最も人を幸せにすると思います.

書籍もまた人と同様に,完璧ではありえないはずです.本には無謬の威厳とでもいうべき佇まいがありますが,それも人が書いたものです.その証拠に,本には著者の名前が大書されているではありませんか.だから,ぶ厚いページをまとっていたとて,怯えなくて大丈夫です.本が本としてあるのは,それ自体に価値があるからではなく,それに書かれていることを皆が好んでいるからです.嗜好の問題だと思えば,本に気負うことはなくなるでしょう.紙に印刷されているのは,たまたまそうなっているのだと僕は思うことにします.

考えたことは以上です.考えていることを文字にしていけば考えが明瞭になるかと思い,なるだけ書き直しをせずに,慎重にフレーズにしていきました.書いているうちに不安が遠のいていくような思いがしました.今ならあの本と手をつないで,遊びにいけそうな気がする.

*1:今の職場がまさにそうです